海外ドラマのがん患者(2) [ぐだぐだ]
2015年9月10日(木)
私が字幕をつけた海外ドラマで印象的ながん患者。前記事の続きです。
もう1人が ②のドラマの第3だか第4だかのシーズンに出てきました。
それは主人公のおばさん。久々に訪ねてきて、実はがんなんだ、と告げます。
手術は無理だし、もう治療はしない、と決意を伝え、主人公兄妹は
涙を流しながらもそれを受け入れました。
ちょっと天然で魅力的なおばさんの、静かな覚悟が胸に迫るエピソードでした。
が、そのおばさん、次のシーズンで元気に再登場!
病院で出会った患者仲間の男性と恋に落ち、彼の説得もあって化学療法を受け
小康状態の今、主人公たち兄妹を訪ねてきた、、、という すてきな展開
自らも余命宣告を受けたその恋人はそこそこのお金持ちで、
「自分の命がある間は、この女性に楽しい日々を贈りたい」なんて言ってくれる、
がん患者女性(独身only? )の理想の白馬の騎士でした。
そのおばさんは、心配する主人公に向かって「ほら、ウイッグもすてきでしょ。
poison(やっぱり抗がん剤のことです) のおかげで快調よ」とケロッと言ってのけます。
腫瘍が小さくなったとか、完治したとか、そういうわけではなさそうですが、
とにかく“今”を謳歌している。
その達観した様子が、天然キャラとあいまって本当にすてきでした。
こういう患者像こそ、もっと描いてほしいわ~、と私は思います。
まあ、このおばさんほど恵まれてなくても、その場その場で
てへへっなんて復活して頑張る姿。
それがリアルってもんでしょ?
ところで----------------------------
②のドラマの、このおばさんも、①のドラマの女医さんと同じく、抗がん剤を poison =毒 と
言っていました。
②のおばさんのセリフを訳す時、私は素直に「毒」としました。
私自身は化学療法を終えて1年経つか経たないかでしたから、
抗がん剤に耐えた者として、つらさも記憶に新しく、
あれを「毒」と言いたくなる気持ちはよく分かりましたから。
ところが演出担当さんから、「毒と直接的に言ってしまうと誤解される恐れがある」といって
「薬」とか、そんな無難な言葉に変えるよう指示されました。
その時は、少々抵抗したのですが、今になって考えると、演出の判断は正しいと分かります。
そして、①のドラマで再び、poison! と、抗がん剤について毒づきまくる登場人物に出会い
今は何とかその発言がいろんな誤解を生まないで済むよう細心の注意を払っているところです。
私たちの仕事って、英語を間違えずに日本語にするだけではなく
こんなふうに多方面に気を使ってるんですよ~
その気の使い方も、今回のように病気して初めて気が回ることもあったりして
悪いことばかりじゃなかった、と、思ったりする今日この頃でした。
海外ドラマのがん患者(1) [ぐだぐだ]
2015年9月9日(水)
私、かれこれ30年近く字幕翻訳者をやっています。
このブログでは今まで「徹夜した」とか「忙しかった」とか、そんなことしか
仕事のことには触れてきませんでしたが、今回はちょっと…
というのも、今まさに訳している最中のドラマで、がんを宣告された実習医が
治療を拒否して「好きなことやってパッと散りたい!」みたいなことを言うシーンがあり
いろいろ考えてしまったのです。
ドラマというのは、どんなに“日常を描く”とかうたっていても、
そこはエンターテインメントなので、何かしら盛り上げなければなりませんから、
惚れた腫れた切った張った、が強調されます。
“がん告知”とか“抗がん剤治療”とかは、万国共通で『大変だ~』と
認識されるネタですから、制作側としてはとっても使いやすい(?)モチーフです。
現に、私がここ数年ずっと手がけている2つのドラマシリーズにも
ちょいちょいがん患者が出てきます。
今日は、その中からいくつかエピソードをご紹介しようと思います。
中身が長くなりそうなので2回に分けます。
まずは、いろいろ考えるきっかけとなった今作業中のドラマ① 中のエピソードです。
若い女医さんががんを告知され(それも生存率2%という段階で)、家族の説得も聞かず
治療を拒否して… という設定。
無治療を選ぶのはいい。本人の意思が尊重されるべきです。
しかも彼女は実習医で専門的知識も持っていて、そのうえでの判断ですし。
ただ、 その判断に至る前に、「私は患者を大勢見てきた。みんなpoison(抗がん剤のこと)を
体内に入れられて苦しんで死ぬのよ!」 とかいうセリフを吐く。
それが引っかかるぅぅぅ (ーー;)
そりゃドラマだから、彼女が常識を外れた行動を起こすきっかけとして
病気の宣告はちょうどいいんでしょうけど
あのー、あなたが見てきた患者さんたち、治療のときは苦しんだだろうけど
ほとんどが、そこそこ健康を取り戻し、まあまあ普通の生活に戻ってるはずですよね?
と、患者経験者としてはツッコミを入れざるを得ませんでした。
あと、苦しむ患者を見て、絶望と憐れみしか感じなかったとしたら
そりゃ医者としてというより人間としていかがなものか、とも思っちゃう。
今どきの患者、哀れなだけなんてこと絶対にないし、
命をかけた闘いを見れば、誰でも多かれ少なかれ敬意を抱かずにはおれないはずだもの。
ドラマの展開で必要なヤケクソ発言だったとしても、
どうもね、納得できませんでした。
前にも映画の感想の記事で書きましたが、ドラマや映画では“がんの告知”の扱いが
安直というか、画一的すぎる気がします。
がんを告知されたら、 そりゃショックだし自分の来し方行く末をどどーん、と考えたりするものだけど
そんな大げさに盛り上げてどうすんのよ、と私は思う。
がんになる人は多いんだから、もう、そういうのやめようよって思うんです。
まあ、告知されたとき、自分でも驚くほどショックでも何でもなく
冷静だった私だから、そう感じるのかもしれません。
不思議なんですが、本当に、平然としてた。
予感があったのもあるし、
「でも絶対悪くはならない」という根拠のない自信もあったんです。
もちろん、あとでジワジワ落ち込んだりはしました。
手術後の検体検査結果で化学療法が必要、と言われたときは
さすがに軽くうろたえましたしね。化学療法への恐怖はあったんです。
そんな恐怖をあおるように、ドラマも描いていたりします。
私が担当しているもう1つのシリーズ、1年のうち8か月を拘束されているドラマ②には、
こんなエピソードがありました。
しらせ [ぐだぐだ]
最初のしらせは、
伯母の携帯からだった。
午後7時半すぎのこと、仕事で
神田にいた弟は、即、東京駅へ行き
広島どまりの最終新幹線に乗り、
下松までレンタカーを飛ばしたけれど
三鷹にいた私にはどうしようもない時間だった。
大慌てで仕事の段取りをつけ荷造りをして、
新幹線の始発を待つしかなかった。
“なんとか意識のあるうちに、お子さんと会わせよう”と、
主治医が私たちを呼び戻させたのだが、
父は私たちを認識できていなかっただけでなく
私たちからも“こんなのお父さんじゃない”としか思えないような、
ゾンビと獣の混ざったみたいな状態だった。
父は2~3日で意識と理性をかなり取り戻し、
話もできるようになったし、私たちは親孝行の真似事もできた。
弟は、退院後の話までしながら、一足先に
横浜に戻っていった。
私もある朝、夕方の新幹線でいったん東京に戻ろうと
スーツケースを持って病室へ行った。
だが、朝の光の中、父はひどく弱って見えた。
私は帰京を取りやめた。
それから1日。力は薄れていきつつも、父は穏やかだった。
この状態がしばらく続くのだと思えた。
早目に床についたその夜、私はなかなか寝つけず、
うとうとっとしたところで、ハッと目が覚めた。
ベッドで体が上下に揺れている。地震かと思った。
だが、それは自分の鼓動だった。
何かの入り口で友達に話しかけられて「やだ、間に合わない」と
焦っている夢を見ていた。
母から電話でしらせがあったのは、
その直後だった。
病室に駆けつけたとき、父は
心臓マッサージを受けていた。
主治医はその後で、臨終の宣告をしてくれた。
でもたぶん、父の命の火が消えたのは、
私が「間に合わない!」と目覚めた瞬間だったのだろう。
安手の怪談みたいだけど、私は、あれが
しらせだったと信じている。信じたい。
父がしらせてくれたのだ、と。
どまんなか? それともハズレ?/「グーグーだって猫である」 [ぐだぐだ]
先日やっと、「グーグーだって猫である」を
観に行った。
ほとんどの地方で上映は終わって
しまっているのだけど、なにしろ吉祥寺は
ご当地。
10月いっぱいは上映するらしい。
とはいえ劇場はガラガラ。客はせいぜい
10人ほど。
上映開始5分前までは、貸切なのか?と
ちょっと興奮したぐらい。
始まってみると、映画はモロにリアルに吉祥寺!
私が普通にお散歩する公園、お茶するカフェ、
足を休める広場、ぶらぶらのぞいて歩く商店街、
そんななかでドラマが進んでいく。
なんだか不思議な気持ちになってしまった。
①猫を愛する②自宅で原稿をかく職業の
③40代の女性が④婦人科の病気を乗り越えていく
という物語なのだけど
①~④までビッタリ自分と重なってしまう。
しかも舞台は、私にとってごくごく日常的な町なのだ。
自分の人生の別バージョンを
かいま見たんじゃないかって錯覚を
起こしてしまいそうだった。
ほんわりとした雰囲気で魅力的なキョンキョン
(錯覚のしようがないほど自分とは違っている、と、
それぐらい分かる理性はあるのだ~)、
自然でまっすぐで、かわいい上野樹里ちゃん、
そして細野晴臣の音楽も、心が思わずのんびりするような
あたたかさで、すてきだった。
自覚あるおばさんのファッション? [ぐだぐだ]
大学の一般公開講座に週2回。
その時間的負担がどんなものかはさておき、
ほぼ家に引きこもって仕事をしていた私には
「人の大勢いる場所へ行く」というのはけっこう大イベント。
大学そのものは三鷹の奥地で、おされな街とは程遠いけれど、
現役の学生さんたちは本物のヤング(言い方が年寄り)だ。
そんななか、どう装えば見苦しくないか。
これは大問題!
日ごろ、同年代の友人と会うときには、年のワリには
そこそこ若げな格好をしていて、それはそれでOKなのだけど
本当に若い人に紛れるとなると、若ぶったいでたちは、逆に
大変惨め、でもあり、屈辱的、ですらある。
そのくらいの自覚というか自分を客観視する理性は持ってる。
でも私、体型や顔のつくりが、“かっこいいマダムのファッション”とか
“できる女のファッション”とかいうものを受けつけない、
似合わねー! のだ。困った!
そんなわけで、不必要なフリルやレースでかわい子ぶらない、
ごくごく地味だけど着心地は追求してますよ、と感じられる、
そんなスタイルを目指して装うことに、しております。
達成できているかどうかは疑問だけど(そもそも出かけるのに
いつも時間ギリギリだからなあ)。
こんなふうに、自分の身だしなみに注意を払うということ、
これはやっぱり社会人としては必要なことなので、
それだけでも公開講座を受けてヨカッタ、と
思ったりする今日このごろ。
心の膝カックン [ぐだぐだ]
連休に帰省したとき、大学の公開講座を受けているという話をしたら
母が「また勉強して、先生になったらええわ」と言い出した。
娘をいくつだと心得てる? 今さら教職めざせってか?
昔から、母も、今は亡き祖母も、私の進路についてはとにかく
“教師になれ”の一辺倒。
たいした企業がなく、地元の銀行などお堅い職場は
短大卒しか採用しなかった私の故郷。
4年制大学卒業の女子は、教師になるか玉の輿にのるか
それが「上がり=ゴール」。
だから、私が目指すべきは教師だった。
それは、わかる。
だから、母の頭には「娘は先生になってほしい」と
強く強くインプットされていたのだ。
それは、わかる。
だけど、私は今の仕事を始めてもう20年、
そこそこ評価も得ていて、ちゃんと稼いでいる。
私がやっているのは字幕翻訳で、吹き替えとは別物だということ、
それがどうしても理解できないようだ、とは薄々感じていたけれど
手がけた作品がテレビで放映されたりDVDになったりしたら
知らせたり送ったりしているし、
母にも喜んでもらえている、と思っていた。
好きな仕事を頑張っているのだと、
それはわかってもらえていると思っていた。
でも違った。
母は今でも、娘には先生になってほしいと思っていたんだ。
母はその場で思いついたことを口に出しただけで
価値観の違い、とかそんな大きなことじゃない、
気にすることはない、とわかっているし
普段は忘れているのだけど、何かした拍子にふと
“ああ、お母さんは私の生業が不満なんだ”と思ったりすると
膝カックンされたみたいに力が抜けかける。
そのまま倒れたりはしないけど、ちょっとカッコ悪い、
そんな感じの今日このごろ。
初めての大人買い [ぐだぐだ]
今さら“大人”とかいうのがこっぱずかしいほどの年では
あるのだけど、生まれて初めて“大人買い”の贅沢を
してしまった。。。
Clarks のバレエシューズを色違いで2足。やった~~(しみじみ)
今日は白いフラットな靴を探していたのだけど、店頭に
出ていたのがサイズ違いだったので、隣にあった茶色のを
履いてみたところ、この色がもう、ツボに入りまくり!
で、もう辛抱たまらなくて買っちゃった。買ってもうた。
値段的には、さほどお高いものではないけれど、
こういうドキドキは初めて。
まあ、たまにはいいよね。ねっ。。。
ちょっと残念 --- 「覇王別姫」 [ぐだぐだ]
シアター・コクーンで「さらば、わが愛 覇王別姫」を見てきた。
陳凱歌(チェン・カイコー)監督の傑作映画を、
岸田理生脚本、蜷川幸雄演出、
そして東山紀之主演で音楽劇に仕立てたもの。この顔ぶれだけで
期待は最高潮ではないですかっ!
コクーンの客席に入ると、桟敷席に赤いちょうちんが飾られ、
舞台では既に京劇の楽団員に扮した面々が柔軟体操をしていたり
とんぼを切っていたり、と雰囲気満点。
わくわく。
幕が開くと、風を感じさせる紗(?)の中から、スローモーションで
母子が走ってくる。
多指症の息子の指を切り落とそうと、刃物を振りかざして追う
娼婦の母、逃げる主人公小豆(のちの程蝶衣)。
母に捨てられ、京劇俳優養成所に入れられた小豆が、ほかの子に
いじめられ、かばってくれた石頭(のちの段小樓)を慕いながら
修業に励み、京劇俳優として成長していく---という
いわばプロローグが、セリフもなしに鮮やかに語られ、
もう一気に引きこまれた。
が、